桜木紫乃「追悼文という虚構」(抒情文芸第192号)
名前だけは知っている作家さん。作品は読んだことがない。けれど、このコラムは気になって少し検索してみるとふたつほどそのような記述に行き当たったので図書館でコピーをとってきた。
人が死んだと見るや我先にとさみしいですありがとうございました信じられない早すぎる等々とにかく言葉が溢れ返る、ように見えるがそれはそういうところを見ているからなのだ。そうでない場所もある。そうでない人もいる。その人との距離、時間、関わり方、みんな違うのだからその時のありかたも行動も言葉も違うのだ。そのことはこの一年で身に沁みた。それを理由に人を責めてもどうにもならないことも。
桜木さんの文を読むと、滲み出てくるように感じるものとその裏で決して表にはこぼさないようにしているものがあるように感じて、それは桜木さんが文章を生業としているからだけではないようにも思う。それがあるいは傷というものなのかも知れない。
図書館から帰って改めて抒情文芸の文を読み、これが読めてよかったと思った。
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