養父と母と父と祖母
母は昭和16年生まれで自分と干支が同じ。雑誌の懸賞でぺたんこ人形が当たったのが多分自分が小学1年の時で、ある日学校が終わっていつも通りに帰ろうとすると正門の前に母が立っていて「今日からこっちのおうちだからね」とか言っていつもは左に曲がる交差点を右に曲がった。母の名字が変わり自分の名字は変わらなかった。それから24歳になるまで、三年とひとつところにいたことがない(注:市内転居については割愛しています)。共同アパートで母と祖母(母の母)との三人暮らしで母は夜の仕事をし、しばらくして北川端町の高木眼科の手伝いをするようになった。5年生の時に妹が生まれ、作文を書いて校内の文集に載り翌年は詩で市内の文集に載った。高木の血だねと言われた(注:祖母の弟が高木彬光で高木恭造は祖母の叔父)。6年生に上がる時に曽我さんと暮らすようになり名字が曽我に変わった。曽我さんのお母さんが亡くなりおやじが一人になるからとかなんとか言って小学校の卒業式の次の日に弘前から花巻に引っ越した。自分の誕生日だった。中学1年の1学期のうちに登校拒否になった。叔母のお産で母がいないときに担任と副担任が家に来て学校に行かないことの不利益を懇懇と説き始めて、この人たちは自分の話を聞く気はないんだなと思ってなんとなく学校に行くようになった。弟が生まれて5人家族になり、高校3年に上がる時に盛岡に引っ越した。その年の6月、曽我さんが胃がんで余命半年と診断され、当時は本人に告知する風潮がなく母が一人で聞いたのだが、病院のバス停のベンチでうな垂れていたら今日はストライキでバスは来ませんよと声をかけられてはっとしたのだと言っていた。進学は無理かと思ったが伯母や叔母たち(母は五人姉妹の四女)が行けるならとにかく大学に行けと強く言うので就職せず進学することにした。この時住んでいた家の隣が宗教をやっていて母はそれに入って一応何かしていたがあまり熱心ではなかった。翌年、共通一次が終わった2週間後に曽我さんが亡くなり、病気を治すことはできなくても余命は的確に判断できるんだなと思った。39歳だった。通夜告別式初七日など一連の行事が終わり母と二人で酒を飲みながら(注:自分は小学校に上がる前からそこそこ飲んでいた)、これからどーすっかねーとか言いながら母の愚痴を聞きつつ、母がたわむれに書いた「プリーツの襞が泣いてる娘のヒップ」という詩だかなんだかわからない文を、プリーツと襞が被っているということで「スカートの襞が泣いてる娘のヒップ」に添削して詩とメルヘンに送ったらほんの三行詩のコーナーに載り記念品が送られてきた。スヌーピーのスリッパだった気がする。やなせたかしさんのイラストが自分そっくりでみんなでびっくりした。その時住んでいた家から歩いて10分くらいのところに国立大学があったので二次試験を受けて合格して入学した(注:入学金と授業料は全額免除で卒業した)。
家が神奈川に引っ越すことになり、自分は友達とアパートを借りて大学に通った。奨学金とアルバイトと仕送りで暮らし、公務員試験に落ちて東京の会社に就職した。自宅からでは通うのが大変だったので横浜の伯母のアパートに移った後東京で一人暮らしを始めた。2年で転職し、給料も上がってボーナスもたくさんもらえそうだった。その年の10月、日曜日の朝、叔父から電話がきて母が救急車で運ばれたと知らされた。いつまでも起きてこないのでゆすって起こそうとしてもいびきをかいて寝ていたのだという。搬送されるとき、救急隊員に何か言ったりして酔っ払いだと思われたらしいが鎮痛剤を飲んだ跡があった。搬送先の病院に着くと一番上の伯母(この人だけ母たちと母親が違う)がいて、救命救急センターなんだからきっと助かるわよと言った。手術後、執刀医からくも膜下出血と言われた。何度か出血の跡があり、一度目の出血より二度目三度目の出血がひどいということだった。救急車の中で、家に帰って洗濯物がどうこう言って暴れたのだと聞いた。そのせいかも知れないと言っていた。ICUに入って母の顔を見た。何も言えずに出た。延命措置について判断しなければならなかったが、そんなになってまで生きていたくはないというようなことは言っていたと思ったが、だからと言って延命しなくていいですよと言えるだろうかと思った。結局、助かるためなら何でもしてくださいと一番上の伯母が言ってそういうことになった。金曜日、一度自分の部屋に戻ることになりバスに乗ってお年寄りに席を譲って立って窓の外を見ると白い鳥が飛び立っていくのが見えて、ああそうなんだなと思った。東京の家について支度をしていると電話で連絡があった。48歳だった。13日の金曜日の仏滅だなんてベタ過ぎるけどお母さんぽいねと言った。
その後、神奈川の家で祖母や妹弟と同居することになり東京の家を引き払った。仕事がまともにできなくなり所属を転々とした。しばらくの間は、自分が自分の境遇に甘えているだけなのだと思っていたが自分ではどうにもならず、ある年の春、雨で渋滞したバスに乗っていて窓の外に桜の木があってそれを見ていてひとつひとつの花の花びらの数を数えていてどれも全部五枚あるんだなと思って、ふと、自分が桜の花を見てきれいだとかもう春だとか思っていないことに気付いて精神科に行った。その前から何を食べてもおいしくなくなっていた。仕事は行ったり行かなかったりしていたがある現場にいた頃自宅で血便を出して救急車で当番病院に運ばれたが「下痢の時はポカリとか飲むといいですよ」とか言われてほっぽりだされ、週明けに別の病院に行ったらその場で即入院と言われ二週間入院した。急性胃腸炎と診断された。その後も仕事には行ったり行かなかったりしていたがある時どうしてもだめになって休職した。都合二年休職して一度は復職したが続かず退職した。この間に、時期は覚えていないが、実父の住んでいる自治体から何度か実父の生活保護申請に関する書類が来ていたがいつの間にか来なくなっていた。それがどういうことか、自分では確認していないが、そういうことなんだろうと思う。生まれ年も誕生日も覚えていない。確か乙女座だった。自分はこの実父のことをアランドロンよりハンサムだと思っていて、数回しかなかった離別後の面会も毎月のように会っていたように記憶していて、記憶と言うのはあてにならないものだと思った。が、写真で見ると今でもやはりハンサムはハンサムだと思う。
祖母は明治42年生まれで、4歳で実母と別れ父親の家に引き取られた人で、青森の医者の家のお嬢さんだった。彬光とは母親が違った。母が仕事でいないときによく昔話をしてくれた。乳母に連れられて千葉から青森まで連れてこられたこと、別れるときに乳母やー乳母やーと泣き叫んだこと、お抱えの使用人や車夫がたくさんいたこと、戦時中に機銃掃射に遭って通りがかりの人が助けてくれたこと、食料の調達のためにぎゅうぎゅう詰めの汽車に無理やり乗り込んだこと、等々等。ご飯がたくさんないと落ち着かない人で、一升炊きの炊飯器にとにかくいつもご飯を炊いていた。かぴかぴでもいいのだった。更年期の時に精神のバランスを崩して入院していたという、自分が監視されている、とか。とにかくおいしいものやきれいなものが好きで、納豆チャーハンを作ったときは凄い臭いだとさんざん文句を言われたが食べた後にはまた食べたいと言われた。好物はさりげなくリクエストしていた。舟和の芋ようかんが好きだった。歌舞伎や洋画が好きな人だった。いつも着物の懐にちびた鉛筆と紙を入れていてことあるごとに何かしら書きつけていた。チラシやカレンダーの裏だった。叔母の家で暮らすことになり離れたが、ほどなくして医療施設に移った。肝炎だった。叔母が面会に行くと「あんたも地獄に来たのか」と言われたという。自分の状態が悪く葬儀などには出られなかった。96歳だった。あとになって、叔母と話していた時、そういえばちょっと前にベランダではあはあ息をする音が聞こえてその時は犬か何かかと思ったけど考えてみたらうち2階なんだよねという話をしたら、亡くなる時は肺炎を起こしていたからそれかも知れないというようなことを言われた。霊感のないやつのところにはわかりやすいかたちであらわれるのかも知れないと思った。
あんたは早くに親がなくなっているから面倒見なくて済んでよかったねというようなことを言われるけれど、そう言われればそれはそうなんだろうと思う。だからなんなんだとも思う。
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